S tatue parlanti 話す像たち
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1500年代中期、パスクイーノの像に無記名の辛らつな風刺詩が貼り付けられるようになってから、

この現象はローマに流行し、パスクイーノ以外に張り紙を張られた像「話す像」が登場しました。

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PASQUINO/パスクイーノ

詳しくはパスクイーノのページへどうぞ・・・

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MARFORIO/マルフォリオ

「話をする像」のひとつでもあるモルフォリオは、長いひげを生やして横たわった像で、

川(テベレ川?)の陰喩か、海の神ネプチューンを表したものではないかといわれています。

前述のパスクイーノとはセットで考えられていて、パスクイーノの像に張り紙が張られると、

翌日マルフォリオの像に、それに対する張り紙が張られるという現象が起こっていました。

この像は、16世紀フォロロマーノで、現在大統領官邸前の噴水の一部となっている花崗岩の巨大な杯と一緒に発見されました。

マルフォリオという名前は、MARE IN FORO(マーレ・イン・フォーロ:フォーロの海)が語源となっています。

法王シスト5世歯、この像を使用した噴水をサン・マルコ広場に設置しようとしましたが、

このプロジェクトは日の目を見ず、カピトリーノ博物館の中庭にジャコモ・ポルタが作った噴水の

装飾として設置され、現在もここで見ることが出来ます。

 

<マルフォリオが元々置かれていた広場>

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ABATE LUIGI/ルイジ修道院長

 像は、ヴィドーニ広場 にあるサンタ・アンドレア・デッラ・ヴァッレ教会の左側の壁ぎわに置かれています。

古代ローマの服を着た男性の像で、庶民の言い伝えによると、この近くにあるスダリオ教会の修道院長に

良く似ていたからといわれています。

あまり重要視されていなかったため、あちこちに移動された後、1924年にもともと置かれていた場所へ戻 されました。

「話をする像」の1つとなってから有名になり、パスクイーノとマルフォリオのペアに対抗して

サン・マルコ広場にあるマダム・ルクレッツィアの像とペアを組んで、風刺のやりとりに使われていました。

しかし、どういうわけかこの像の頭は時々盗まれるのです。

1966年に何度目かに頭が盗まれた時には、伝統に従って次のようなローマ弁の張り紙がされました。

「私の頭を盗んだものよ。すぐにもとの場所へ持ってきなさい。

さもないと・・・どうなるか知りたいか?

私は何事もなかったかのよう壊されてしまうのだ。

これにはちょっと我慢できないんでね。」

 

頭を盗まれた状態のルイジ修道院長の像

 

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MADAM LCREZIA/マダム/ルクレツィア

ルイジ修道院長の像との間で、風刺のやりとりがされたルクレツィア婦人の像は、

現在も、ヴェネツィア広場に隣接したサンマルコ広場のヴェネツイア宮の角に置かれています。 

イシス(古代エジプトの豊穣の女神)の寺院で発見された3mほどの巨大な大理石の像で、

巫女、又はイシスそのものではないかと言われています。

像の名前は15世紀有名な貴族の女性ルクレツィア・ダナーニョに由来しています。

ルクレツィアは既婚のナポリ王(アルフォンソ・ダラゴーネ)の愛人で、王の離婚を法王に許可してもらうため、

ナポリからバチカンまで足を運びましたが、許可はおりませんでした。

翌年王は死去し、後継者たちはルクレツィアを、像が置かれている広場に面したローマの家送り返しました。

15世紀に入ってからマダム・ルクレツィアと呼ばれるようになりましたが、

マダムという言葉は当時ローマでは使われておらず、ナポレオン軍の滞在していた

ナポリ(それまで彼女の滞在していたところ)で頻繁に使われていました。

1591年グレゴリオ14世が重病にかかり、高いで囲まれたヴェネツィア邸へ静養をするためにやってきましが、

完治することなく死亡し、その翌日ベネツィア邸近くにある像には

「死神は柵の隙間からしのびこんだのだ」という張り紙がされたそうです。

1799年にローマっ子たち前向きに倒されたことがありますが、

そのときには翌日、が見えないわ!」という張り紙がされていました。

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